アントニ・ガウディ関連略年表 Antoni Gaudi's chronological table |
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西暦 | アントニ・ガウディ関連事項 |
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1852 | 6月25日、バルセロナ南西の商業都市レウスに父フランシスコ・ガウディ、母アントニア・コルネの三男として生まれる。家は代々、銅板機具職であった。 |
1863 | ピアス学院入学、初等教育を受ける(-68)。幾何を除き、成績は平凡なものであった。友人とともに、週刊誌を発行し、ガウディはその挿絵を描く。また、劇団をつくり、舞台装置を担当する。さらにポブレットにある修道院の修復計画を立案。 |
1868 | 二科目を落とし、五年生を終了できず。9月バルセロナに移る。建築学校への入学を準備する。 |
1869 | バルセロナ県立建築専門学校予科に入学 |
1873 | 同本科に入学。77年までの在学期間中、ビリャール教授をはじめ、何人かの建築家のもとで製図描きなどのアルバイトをする。 |
1875 | 翌年フィラデルフィアで開催されたアメリカ独立100年記念博覧会<スペイン館>計画案(-76) |
1876 | 課題<県会議事堂の中庭>計画案、課題設計競技<桟橋> |
1877 | バルセロナのカタルーニャ広場<記念噴水>計画案、バルセロナの<総合病院>計画案、卒業設計<大学講堂>。また、82年まで建築工匠ジュゼップ・フォンセレーと<シウダデラ公園>全体にわたって共同作業 |
1878 | 建築士の資格取得。レアル広場の街灯(79年竣工)、パリ万国博のためのエステバン・コメリィアの手袋店の<ショーケース>、マタロの<マタロ労働者綿織物協同組合>計画。カタルーニャ探訪協会に参加、カタルーニャ各地への旅行に加わる |
1879 | バルセロナの<ジベール薬局>装飾 |
1880 | ジュゼップ・セラマレイと共同で、バルセロナ港防波堤の照明計画案 |
1881 | ラナシェンサ紙に装飾美術展(バルセロナで開催)に関する論文発表、ガウディが生涯を通じて発表した唯一の論文 |
1882 | アウゼビ・グエルの依頼により、ガラフの<狩猟小屋>設計 |
1883 | <カサ・ビセンス>建設開始(-88)。<エル・カプリチョ>設計(-85)。<サグラダ・ファミリア聖堂>の主任建築家に任命される |
1884 | <ファンカ・グエル>(グエル別邸。-87)、<サグラダ・ファミリア教会>(継続中) |
1887 | <グエル邸>(-89)、<アストルガ司教館>(-93)。アンダルシア、モロッコ旅行 |
1888 | <サンタ・テレサ学院>(-90) |
1891 | <カサ・ボティネス>(-93) |
1892 | モロッコのタンジールにある<フランシスコ伝道会施設>計画案 |
1898 | <カサ・カルベ>(-1904)、<コロニア・グエル教会>(-1916) |
1900 | <グエル公園>(-14)、<ベジェスガルド>(-16) |
1902 | <カフェ・トリノ>の内装に協力 |
1903 | マリョルカ島<パルマ大聖堂>修復 |
1904 | <カサ・バトリョ>増改築(-06)、モンセラート山<栄光の第一秘蹟>(-14) |
1906 | <カサ・ミラ>(-10) |
1908 | この年から10年にかけて、ニューヨークの<グランド・ホテル>計画案 |
1909 | <サグラダ・ファミリア付属学校>(-10) |
1910 | 4月15日-6月30日、パリのプチ・パレにおいて「ガウディ展」開催 |
1911 | 熱病にかかり、フランスとの国境に近い村で療養、この間に遺書を書く |
1912 | ブラネス教区教会の<説教台>。このころより、サグラダ・ファミリア聖堂の仕事に専念するため、他の仕事をいっさい断る |
1914 | 2月18日、友人であり助手であったベレンゲール死去 |
1918 | 7月8日、最大のパトロンであり友人であったアウゼビ・グエル死去 |
1924 | バレンシアの教会の<説教台>。これが年記のある最後の作品とされる |
1926 | 6月7日夕刻、路面電車にはねられ、10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去。6月12日、ローマ法王庁の特別許可により、サグラダ・ファミリア聖堂に埋葬される |
「ガウディのフニクラ カタルーニャの曲線」INAX出版 より